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多町二丁目とは

慶長(けいちょう)八年(1603年)、徳川家康は荒涼たる武蔵国(むさしのくに)、江戸に幕府を開いて全国支配の中心とするとともに、神田・日本橋・京橋で町づくりを始めました。
寛永(かんえい)年間(1624年~1644年)以前に成立した町を江戸古町(えどこちょう)といい、神田には二十二の古町がありました。慶長十一年(1606年)に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。(出典元 千代田区ホームページ)

多町二丁目祭礼史

 神田祭は、元禄元年(1688)に江戸城に入り、将軍の御上覧を受けて以来、天下祭として日本 最大級の祭礼となりました。現在も京都祇園祭、大阪天神祭とともに『日本三大祭』の一つに数えられています。 

 江戸時代の神田祭における現在の多町二丁目町会は、参加していた三十六番組の山車行 列の内、十八番(稲穂に蝶)と十九番(鍾馗人形)を受け持っていました。

 特に十九番の「鍾馗の山 車」は、山車中の王と呼ばれ、江戸周辺にまでその名を轟かす江戸の名物の山車でありました。また、大正九年に作成されました大神輿、小神輿、太鼓山車などは東京国立博物館に国の文化財として現存 しております。

 現在の大神輿、小神輿、太鼓山車は、昭和五十四年に新調し、特に大神輿は、神田神社の氏子町会神輿約二百基の内、最大の大きさ(台輪三尺)を誇り、三重垂木、三重匂欄という珍し い形のお神輿として大変に有名です。この様に、江戸時代のはじめより、神田祭の中心的存在を当町会は連綿と続けてきております。

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